弥生時代

弥生時代の村


 日本に、大陸から稲作(いなさく=米を作ります)の技術が伝わったのは、最近の研究によると、稲作技術が伝わったのは、紀元前10世紀ごろです。2003年(平成15年)に国立歴史民俗博物館歴博)が、放射性炭素年代測定による弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まることを明らかにしました。
 従来、弥生時代は紀元前5世紀に始まるとされていましたが、この新見解はその開始を約500年もさかのぼるものでした。初め、この新見解について研究者の間でも賛否両論がありましたが、その後研究がすすめられた結果、多くの研究者が弥生時代の開始年代をさかのぼらせるようになってきているそうです。弥生時の始まりについて、従来、縄文時代晩期後半には北部九州地域に稲作技術が伝わったとされており、縄文時代晩期後半とされてきたこの時期について、近年ではこれを弥生時代早期と呼ぶようになりつつあります。紀元前10世紀頃に、大陸から北部九州へと稲作技術が伝わり、その後、九州各地・四国・本州に広がっていきます。
 弥生時代は、早期・前期・中期・後期の4期区分がなされていますが、この新見解から、早期は紀元前10世紀ごろから紀元前9世紀ごろまで、前期は紀元前9世紀頃から紀元前5世紀頃まで、中期は紀元前5世紀頃から紀元1世紀頃まで、後期は1世紀頃から3世紀の中頃まで続いたと考えられます。
 歴博では、紀元前10世紀後半に九州北部で本格的にはじまった水田稲作が、約800年かかって日本列島を東漸したとの説を展開しました。水田稲作が九州北部から各地に広がるのに要した年月は、例えば瀬戸内海西部地域までで約200年、摂津・河内までで300年、奈良盆地までで400年、中部地方には500年、南関東には600~700年、東北北部には500年かかったと推定しており、水田稲作が、きわめてゆっくりと各地に広がっていったことになります。
 ただし、学校の教科書では、弥生時代のはじまりを紀元前10世紀とするこの新しい研究成果を紹介していますが、弥生時代を、これまで通説となっていた、1960年代に出された説である「弥生時代のはじまり=紀元前300年」として、紀元前3世紀ごろから紀元3世紀ごろまでの600年間としています。教科書の記述は、「弥生時代は紀元前5世紀に始まる」という通説よりもさらに以前の説を採用しているので、書き換えられていくことでしょう。
 弥生時代の「弥生」という名前は、1884年明治17年)に東京府本郷区向ヶ岡弥生町(現在の東京都文京区弥生)の貝塚で発見された土器が、その場所の名前から弥生式土器と呼ばれたことに由来します。
 弥生時代のはじまりである初期の水田は、佐賀県唐津市の菜畑遺跡、福岡県の板付遺跡、福岡市内の那珂遺跡群や糸島の​曲り田遺跡など、北部九州地域集中して、水田遺跡や大陸系の磨製石器、炭化米などが発見されています。
 その後、弥生時代前期には東北へと伝わり、青森県弘前市砂沢遺跡では小規模な水田跡が発見され、弥生時代中期の遺跡として青森県南津軽郡田舎館村垂柳遺跡からは広範囲に整然とした水田区画が見つかっています。また、中期には、日照時間の短い中部高地ではか育たなかった稲が、中央高地の松本盆地千曲川流域までひろがり、日本列島全体に波及したといえます。
 この水田を作った弥生人は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作りました。集落は、住居と墓がはっきりと区別ように作られ、居住地域の周囲にはしばしば環濠が作られました。
 道具は、始め石器を多く使ったが、次第に石器にかえて徐々に鉄器を使うようになりました。青銅器は当初武器として、その後は祭りの道具として用いられました。また、農具として木器もしばしば用いられました。
 弥生時代には農業によって、穀物の備蓄が可能となり、稲作の知識のある者が「族長」となり、その指揮の下で稲作が行われました。また、稲作により、用水の管理や水田の開墾やなどに大規模な労働力が必要とさ集団化が進行しました。大型化した集団同士の間には、富や耕作地、水利権などをめぐって戦いが発生しました。このような戦いを通じて集団はさらに大規模となり、やがて各地に小さなクニが生まれていきました。